「生きる」ことの前提は何か?/西村佳哲『自分をいかして生きる』

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西村佳哲さんの『自分をいかして生きる』(バジリコ)を読んでいて、びっくりする言葉にぶつかった。

それは「自分の仕事」とは、「自分の存在とつながった、いわば自己一致感の高い働きとして社会に差し出されるもの」であり、それは「自由=自らに由って行われること」だという話に続く、果たしてそれは可能なことなのかという疑問から生じたこんな一節だ。

自らに由って生きるということは、他の誰のせいにもできないし、言い訳もしないあり方を意味している。生まれてきた自分に責任を持って、それをまっとうするということ。「生まれたくて生まれてきたわけじゃない」という言い草があるかもしれないが、受精時点で数億分の一の競争をすでに経ているのだからこれは一蹴にするにしても、人間は決して強い生き物ではないという見方にも頷ける。(p.165)

※以下、引用のページ数はバジリコ版のもの。

この一節の重点は、みんながみんな「自分の仕事」ができるわけではないという意見も否定はしないという立場を表明するところにある。だから、「生まれたくて生まれてきたわけじゃない」という気持ちを、「言い草」と呼び、とるにたらないものとして「一蹴」していても、あまり表現にこだわりすぎると受け取り方を間違えてしまうだろうから気をつけないといけないとは思う。

でも、わたしにとって、これはどうしてもすんなりと先には進めない疑問なので、こう言われてしまうとどうも落ち着かない。こんなことにこだわっている自分がおかしいのだろうかと恥ずかしい思いがする。

わたしたちは生まれることを選んだのか?

そもそも、わたしたちは生まれることを選んでここにいるのだろうか? たしかに精子たちの競争があったからわたしはいるのだけれど、精子の行動とわたしの意志は果たして同じ連続線上にあるものなのか。わたしにはどうしてもこれを、ひとつにつなげて考えることができない。人間として生まれて育っていく過程で「わたし」は形作られていったと感じるから、受精卵ができる以前の精子の行動を「わたし」のうちに含めることは難しい。

「言い草」や「一蹴」という言葉から離れて、「生まれてきた自分に責任を持って、それをまっとうする」という言葉に視線を移してみる。わたしなりの受け取り方を言葉にしてみると、「自分が自分であることを引き受けて、生きていくこと」という感じになる。

わたしにとっては「引き受ける」ことに大きな意味があるのだが、西村さんの「責任を持つ」、「まっとうする」という言葉にも、何かが込められていることを感じる。それは、西村佳哲さんが培ってきた、生きることへ誠実な態度と言っても良いのではないだろうか。けして自分が生きるということをあたり前のこととして、思考の枠外に追いやってしまった人の言葉ではないと思う。

前提を問う

デザイナーでもある西村さんは多摩美術大学でデザインを教える仕事もされているが、その基礎に据えられているのは「これだけモノが溢れている世の中で、さらに「つくる」ことをなぜ前提にできる」のかという問いだという。そして、この疑問は仕事や働き方に対しても感じるものだとして、このように書いている。少し長くなるが、引用する。

わたしたちの生涯の多くの時間を仕事に割く。学校を卒業したら働くべきだと、ごく普通に考える。働くことを通じて人は成長するし、それは喜びをともなう経験でもあるといった具合に、働くことをごくあたり前に肯定している人は多いんじゃないか。

デザイン教育の「つくる」同様、この社会には「働く」というベクトルがあると思う。まるで前提のように。そして時には怠けてしまった自分を攻めたり、働かない人の姿に苛立ったりもする。しかし、わたしたちは働くべきなのか?

「働くことは人間の本質であり、よいことである」といった考え方は、比較的受け容れられやすいものだと思う。それは違う!とむきになる人はそう多くないはずだ。

<中略>

でも、本人の実感以外のところから、まるで倫理や徳や常識のように語られる「働くことは喜びである」といった言い切りには同意しきれない。それが<自分の仕事>なら、むろん働くことは喜びになると思うが、自分の仕事だと思い込まされるようなファシリテーションが社会に施されているとしたら?(p.141-3)

西村さんが「つくる」、「働く」ことがあたり前の前提になっている社会や人のあり方に対して疑問を感じるように、わたしは「生きる」ことが当然のこととされてしまっていることに疑問を感じる。「生きる」というベクトルが働き、そこに乗ることに難しさを感じる人たちを低く見ていないだろうか。そして、自分自身にもしそのような難しさがあったとき、それをあってはならないものとして追いやったりしてはいないのだろうか。そしてこうも思う。しかし、わたしたちは生きるべきなのか?、と。

なにも死んだほうが良いと言いたいわけではない。かといって、生きていることに感謝すべきだ、生きているって素晴らしいという生命賛美のメッセージに触れると、わたしは苦しさを覚える。讃えるのでもなく、絶望するのでもなく、自分自身の実感から生きることに向きあうことはできないのだろうか?

ものごとが何に由って立っているのか無自覚になると、そこから得られる手触りは貧しいものになってしまう。これは、デザインでも働くことでも、生きることでも変わらないことだと思う。だから、わたしはわたしなりに、生きていることで起きているのはどういうことか、生きることとはどういうことなのかを問い直してみたい。これを問うていくことは、わたしたちの生の土台を作ることだと思うから。

西村佳哲さんが「みなさんはどんなふうに働いて、生きてゆくんですか?」と問いかけたように、わたしは「みんなどうして、なにをして生きているんですか?」と問いかけてみたい。

【追記】寂しかったので画像を追加した。西村佳哲さんと8日間を過ごした穂高養生園にいたサル(3/21)。

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松下 弓月

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松下弓月(まつしたゆづき)。たい焼きと映画とコーヒーと。最近は餃子が盛り上がっています。

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